矢沢永吉さんは、70代のロックンローラー。
2022年にデビュー50周年を迎えました。
今回は、生い立ちの話です。
このページでは、
「矢沢永吉の本名は趙永吉で韓国人だった?」「生い立ちが壮絶で母親が蒸発?」
「父親は原爆の後遺症で他界?」などについてお伝えします。
どうぞ、ご覧ください。
矢沢永吉の本名は趙永吉で韓国人だった?
矢沢永吉の本名は趙永吉で韓国人だった?
「矢沢永吉の本名は趙永吉で韓国人だった?」については、
公式な発表はありません。
本人にしてみれば「どちらでもいいだろう」という話ではありますが、
ネット上では勝手に論議されています。
書き込みの中には、
「馬鹿な奴がデマを流し、更に馬鹿な奴が信じ込み、噂が一人歩きしている」
と怒りさえ感じられるものもありました。
ここでは、
矢沢永吉さんの出生の噂を追いかけてみました。
本名は趙永吉で韓国人説につながる根拠は?
「矢沢永吉さん本名は趙永吉で韓国人説につながる根拠」は、
官報(と言われている)の画像が出回っているところにあります。
その画像を見ていただく前に、
官報の説明を確認。
官報は、国が発行する唯一の法令公布の機関紙。
国の政策を周知したり、国民の権利義務に関連する各種の公告を掲載する重要な機関紙。
「趙 永吉(チョ ヨンギル)」という名前が出てくる画像は、こちらです。
この文書に並んでいる人たちは、
「帰化申請した」ということで発表されているようです。
赤枠の部分が拡大されたものもありました。
住所は、
矢沢永吉さんの出身地の広島ではなく活動を始めていた横浜市磯子区になっています。
生年月日は1949年(昭和24年)9月14日で、矢沢永吉さんと同じ。
出回っている話によると、
こちらの官報は1978年(昭和53年)6月8日に発行されたものらしいです。
ちなみに、
矢沢永吉さんが「アイ・ラヴ・ユー、OK」でソロデビューしたのは1975年。
1978年には、「時間よ止まれ」が大ヒットしています。
韓国籍ではなかったというファンの主張
矢沢永吉さんが韓国籍ではなかったというファンの主張は、
1978年(昭和53年)6月8日の帰化説の否定です。
それ(1978年)以前に、
矢沢永吉さんは日本人のパスポートで海外に出ていたというのものです。
また、
「学生時代に取得したバイクの免許」も、
「矢沢永吉」の名前だったという主張もあります。
それらは、
東京・赤坂にあるショップ「DIAMOND MOON」で展示されていたという話です。
キャロルのメンバーと混同している?
在日韓国人(母親が)だったのは、
キャロル(1972年~1975年に活動したバンド)のメンバーでした。
それは、ジョニー大倉さんです。
本人が明かしています。
矢沢永吉の生い立ちが壮絶で母親が蒸発?
矢沢永吉の生い立ちが壮絶で母親が蒸発?
3歳の時に母親がいなくなった!
特集記事やインタビュー、著書「なりあがり」で矢沢永吉さんが表現している言葉では、
親父は俺が小学2年生の時に死にました。
おふくろは俺が3歳の時にいなくなったから、8歳で孤立無援。
だから父方のおばあちゃんに育てられたんです。
という話になっています。
母親は、
「酒に溺れる父に愛想を尽かして蒸発」という情報もありました。
祖母との生活
一部の情報では、
親戚中をたらい回しにされたという話があります。
祖母との生活では、
一番のごちそうは、溶き卵に水としょう油とか混ぜてふかした茶わん蒸し。
と矢沢永吉さんは明かしていました。
誕生日には茶わん蒸しの卵を2つにしてくれて、
『心まで貧しくなるな』という意味を込めて、
「永吉、ニワトリ2羽だと思って食え」と祖母は言っていたそうです。
金持ちの息子から受けた屈辱は、多くのファンに知られている話。
「お前こういうの食えないだろ」って、
ケーキをちぎって顔に向けて投げられたのです。
その相手に殴りかからずに、
ケーキのクリームをなめたいと思った自分と、
そういう境遇に怒りが湧いてきて、
「絶対、金持ちになってやる」と思ったのが矢沢永吉さんの原点にもなっています。
小学生で新聞配達、中学生で牛乳配達、
高校時代は映画館のフィルム運び、埠頭の砂利運び、造船所のシリンダー磨き。
そのような生活を送って矢沢永吉さんは、
音楽活動をめざすようになったのです。
いなくなった母とは再会している
キャロルでデビューする直前に、
矢沢永吉さんは20年ぶりに母親と再会をしています。
これは、
矢沢永吉さんのファンなら誰でも知っているはずです。
当時の様子について、
ラジオ漫談のように語っている「竹井輝彦」さんのYouTubeチャンネルから、
矢沢永吉さんの20年ぶりの母親との再会を切り取ってみました。
こちらは、
矢沢永吉さんになり切っている「竹井輝彦」さんの画像。
再会した場所は、大阪。
22歳でキャロルでデビューする前に矢沢永吉さんは、
ある人の連絡で母親と再会することになったそうです。
『こちらが、あなたのお母さんです』
母親は謝罪。
矢沢永吉さんは、
『(母親は)とんでもない女だと、周りから叩き込まれていた』と返します。
『3歳の俺を捨てて行ったアンタのこと、ぶっ殺してやると思ってた』とつづけたあと、
矢沢永吉さんは『生きててくれて良かった』と母親を許しました。
その後、結婚して家庭を持っていた矢沢永吉さんに母親に会いにきています。
「お前にじゃないよ、お嫁さんにだよ」と電化製品を買ってくれたそうです。
話は小説のように長いので、省略。
再会して2か月後に母は亡くなる!同時期に祖母も旅立つ
2か月後、
キャロルのデビュー曲「ルイジアンナ」が決まったとき、
連絡を取ってみると、
すでに矢沢永吉さんの母親は病気で亡くなっていたそうです。
同時期に、
矢沢永吉さんを育てた祖母も亡くなっています。
矢沢永吉の父親は原爆の後遺症で他界?
矢沢永吉の父親は原爆の後遺症で他界?
1987年リリース「FLASH IN JAPAN」(広島がテーマの反戦歌)
1987年リリース(全米でのみ発売)の矢沢永吉さんの「FLASH IN JAPAN」は、
広島の原子爆弾投下を題材にした反戦歌でした。
作詞・作曲を担当した Michael Lunn 氏は、
矢沢永吉さんが広島県出身であることを知らず作詞しています。
ミュージック・ビデオの撮影は原爆ドーム(特別許可のもと)で行われたことも、
当時は話題になったようです。
矢沢永吉さんのファンが書いているブログ記事によると、
Michael Lunn 氏は、あとになってから、
矢沢永吉さんの父親が原爆後遺症により早世したことを知った。
その偶然に驚いた。
というエピソードがあるそうです。
ネット情報では何と伝えられている?
「Wikipedia」では、
「広島で被爆した父親とは小学校2年生の時に死別」と触れられている程度です。
ファンによる情報でも、
矢沢永吉さんの父親に、
どのような後遺症があったのかについてまで書かれているものはありませんでした。
時系列を確認。
広島市に原子爆弾投下があったのは、1945年(昭和20年)8月6日。
矢沢永吉さんが生まれたのは、1949年(昭和24年)9月14日。
小学校2年生で死別となったのは、1957年(昭和32年)。
父親が被爆したあとは、12年間ほどは苦しんでいたことになります。
参考までに原子爆弾(放射線)の後遺症を調べると、
外傷がなくても、脱毛や出血症状、
白血球の減少といった症状が現れ、多くの人が死亡していきました。
と広島市のホームページに書いてありました。
矢沢永吉本人が父親の被爆(原爆の後遺症)を語ったことはある?
「スポニチ Sponichi Annex」の連載記事に、
次のような見出しで矢沢永吉さんの少年の日の思いが掲載されていました。
こちらの記事で、
本文に入る前に矢沢永吉さんの言葉は次のように導いていました。
かつて「成りあがり」(1978年発表)という本でも触れた部分で、
簡単に当時を振り返ります。
父親の被爆については、
一行で説明しているのみでした。
親父は俺が小学2年生の時に死にました。原爆の後遺症でね。
「Wikipedia」に書かれていることと、ほぼ同じです。
まとめ
矢沢永吉さんは活動50周年を記念して、
「史上最年長」全国スタジアム&ドーム・ツアーを2022年8月と9月に開催します。
矢沢永吉さんに、終わりはありません。