日本のガールズメタルバンドの先駆けである「SHOW-YA」で、
ボーカルを務める寺田恵子さん。
今回は、
バンドの歴史の中で起きた「寺田恵子さんのSHOW-YAの脱退」と「再結成」の話。
このページでは、
「寺田恵子のSHOW-YAの脱退理由」や「再結成の理由」などについてお伝えします。
どうぞ、ご覧ください。
寺田恵子のwikiプロフィール
寺田恵子のプロフィール
寺田恵子のwikiプロフィール
- 名前:寺田 恵子(てらだ けいこ)
- 生年月日:1963年7月27日 (2021年11月現在、58歳)
- 出身地:千葉県船橋市
- 学歴:千葉県立船橋芝山高等学校・卒業
- 活動:【HM/HR】ボーカリスト、「SHOW-YA」のボーカル
- 事務所:マスターワークス
影響を受けた邦楽のシンガー
寺田恵子さんの影響を受けた邦楽のシンガーとしては、
「カルメン・マキ」さんと「アン・ルイス」さんの名前が挙げられています。
「カルメン・マキ」さん
「アン・ルイス」さん
影響を受けた洋楽アーティスト
- オジー・オズボーン(ヘヴィメタル・ミュージシャン)
- ザ・ローリング・ストーンズ(ロックの最高峰に君臨するバンド)
- ザ・ビートルズ(20世紀を代表するバンド)
- レッド・ツェッペリン(後発のハードロックに影響を与えたバンド)
- シンディ・ローパー(80年代のポップアイコンの一人)
- パット・ベネター(アメリカの女性ロック・ボーカリスト)
- レナード・コーエン(カナダのシンガーソングライター)
寺田恵子のエピソード
「薔薇の入れ墨」のエピソード
寺田恵子さんの特徴だった「胸の薔薇の入れ墨」は、
実はシールだったというネタばらしが話題になることがあります。
インタビューで寺田恵子さんは、
- あるファンから黒い薔薇をプレゼントに貰ったんですよ。
- それからどんどん惹かれるようになった。
- このタトゥシールは只の飾りじゃなくて私の分身みたいなものです。
と答えています。
アイドルを目指して『スター誕生!』のオーディションを受けた?
「アイドルになりたくて『スター誕生!』のオーディションを受けことがある」
こんなエピソードも寺田恵子さんは、
インタビューで語っていたことがあります。
「『プリンセス プリンセス』のブレイクに落胆」からの奮起!
SHOW-YAより1年後にデビューしたプリンセス プリンセスのブレイクを見て、
「世間的にはかわいい方がいいんだな」と落胆したこともあったそうです。
その後、
覚悟をしてプロデューサーに制作をゆだねたのが「限界LOVERS」。
これが結果的に、
SHOW-YAの代表曲になりました。
寺田恵子のSHOW-YAの脱退理由はストレス?
SHOW-YAの初期エピソードと歴代ボーカル
初期エピソード「SHOW-YAの結成とデビューの裏話」
「SHOW-YA」の前のバンド名は、「メデューサ」。
活動は、1981年からとされています。
「コンテストに落選するのはバンド名が悪いから」という話になって、
飲んでいた店の名前を英語表記に変換して「SHOW-YA」となったそうです。
1982年のヤマハ主催のバンドコンテストレディース部門で最優秀グランプリに輝くと、
寺田恵子さんだけにソロデビューの話が来ます。
寺田恵子さんが全員でデビューすることを希望するも、
6人のメンバーの内の4人が他の道に進みました。
残ったのは、寺田恵子さんと中村美紀さん。
そのあとメンバー募集によって、
角田美喜さん、仙波さとみさん、五十嵐美貴さんが加入して、
1985年のメジャーデビューへと展開。
以上が初期の話になります。
歴代ボーカル
「SHOW-YA」ボーカルは次のように変わってきました。
- 第1期ボーカル:寺田恵子(1982年~1991年2月2日)
- 第2期ボーカル:ステファニー・ボージャス(1991年~1997年)
- 第3期ボーカル:Yoshino(1997年-1998年)
- 再結成期ボーカル:寺田恵子
寺田恵子のSHOW-YAの脱退理由はストレス?
脱退したときの様子
CMに採用されるほどに「限界LOVERS」によってブレイクしたあと、
ロサンゼルスでのレコーディング中に、
「あっ、違うな」と寺田恵子さんはSHOW-YA脱退を決意。
レコーディング中はメンバーには打ち明けないまま帰国して、
しばらくしてしてからメンバーに「裏切り者」と責められることになります。
ラストライブで寺田恵子さんは開演ギリギリに会場に入り、
ライブが終わるとメンバーと言葉を交わさずに去ったというエピソードもあるほどに、
深刻な状況だったようです。
脱退理由はストレス?
ネット上で広まっている「寺田恵子さんのSHOW-YA脱退の理由はストレス?」について、
「ORICON NEWS」の記事では、
次のようになっていました。
「精神的に追い込まれた」とあるので、
色々な要素でストレスが溜まってたんですね。
寺田恵子がSHOW-YAを再結成!なぜ?
寺田恵子がSHOW-YAを再結成!なぜ?
脱退後のソロ活動
脱退後の寺田恵子さんは、
ソロ活動として以下のような歩みをしていました。
1992年には、
シングル「PARADISE WIND」をリリースしています。
1997年に、「全日本女子プロバンド」を結成。
2004年には、「ROCK’N JAM MUSICAL」でミュージカルの初舞台を経験。
再結成に5年かかった
寺田恵子さんはメンバーの一人一人に頭を下げて、
5年をかけて「SHOW-YA」の再結成を果たします。
再結成に5年かかった様子については、
インタビューで寺田恵子さんは次のように答えていました。
流れを整理すると、
- 「はじめに、ドラムの角田美喜さんにライブに参加してもらえた」
- 「他のメンバーにライブを観にきてもらえるようになる」
- 「キーボードの中村美紀さんに気持ちを確認して、OKをもらう」
- 「ベースの仙波さとみさんとギターの五十嵐美貴さんは時間がかかった」
と最後には、
「5年で一人ずつ説得していこう」という思いは実を結んだようです。
脱退後の心境の変化と再結成したいと思った理由
再結成の直後に受けたBARKSのインタビューで寺田恵子さんは、
再結成したいと思った理由を2つのポイントで語っています。
再結成したいと思った理由(1)
- 再結成のきっかけは、自分が大人になったっていう気持ち的なことが大きいかな。
- SHOW-YA時代は結構わがままし放題だったのね。
- 今は大人になったし。みんなと上手くやっていけるかな…と。
再結成したいと思った理由(2)
- 自分がギター始めたのがきっかけかな。
- ギターで弾き語りで歌うようになって、みんなを引っ張っていける力を持ったかもしれないって思うようになった。
- 自信がないときは、SHOW-YAはできないと思ってた。
- みんなにわがまま言ったりする方向にはいきたくなかった。
NHKの「武内陶子のごごカフェ」では、
寺田恵子さんは次のようなエピソードも話しています。
SHOW-YAを脱退したあと、
完全に歌を辞めて、実家の手伝いをして、就職も考えていました。
という心境だったそうです。
友人とカラオケに行ったとき、
SHOW-YAの『限界LOVERS』を歌わされることになり、
そのときに「やっぱり(SHOW-YAが)好きだ」と涙があふれたという話もありました。
まとめ
メンバーが還暦前後になったSHOW-YAは世界進出。
2021年(8月30日に日本先行、11月12日に世界発売)に、
世界進出の第一弾となるアルバム「SHOWDOWN」をリリースしました。
これからのSHOW-YAは、もっと熱くなりそうです。