杉田かおるさんの芸能生活は、
1972年の舞台「春の坂道」で子役としてデビューのときから始まっています。
7歳で天才子役と呼ばれるも、
その後は度重なる借金地獄で波乱万丈な人生でした。
今回は、杉田かおるさんの泣ける「苦労からの逆転の話」をお伝えします。
どうぞ、ご覧ください。
目次
杉田かおるの生い立ち!度重なる借金地獄
7歳のときにテレビドラマで『パパと呼ばないで』で「チー坊」役を演じて、
杉田かおるさんは「天才子役」と呼ばれるようになりました。
しかし、
そのあとの杉田かおるさんには度重なる借金地獄の芸能人生が待っていたのです。
13歳のときに300万円の借金
天才子役だった杉田かおるさんは、13歳のときに独立しています。
そして、設立した個人事務所が倒産。
中学生でありながら、
300万円の借金を背負うことになりました。
バラエティー番組に出演した際に、
13歳のときの借金について杉田かおるさんは何度もトークしています。
「出資して事務所を作りませんか」って、
うまい話を持ってくる人がいて13歳の時に個人事務所を作りました。
でも、1年で解散。
借金だけが残りました。
『3年B組金八先生』で復活!
杉田かおるさんは、
「私の最初の“復活”は『3年B組金八先生』でした」と言っています。
そのころは借金もあって、
女優としては低迷していたころだったそうです。
「3年B組金八先生」では、
中学生で妊娠するという、
1979年当時はショッキングな役でした。
オーディションの面接で「あなたならできますよ」と合格を伝えられてから、
返事するのに3日間くらいかかったそうです。
出演を悩んだ理由
「イメージが強すぎるためその後ほかの役ができなくなり、
失敗すれば評価が大きく下がる」ことを恐れた。
芸能界を辞めても、
役のイメージが強すぎて他の仕事ができなくなることも考えた。
最終的に杉田かおるさんは、
人生の逆転のために、
わらをもつかむ思いで決断。
杉田かおるさんは、
「借金がなかったら絶対やってなかった」とも言っています。
この「3年B組金八先生」に出演したあとは、
杉田かおるさんは運気の流れが変わったことを実感したそうです。
26歳のとき、新たに1億円の借金
その後、
杉田かおるさんは新たに1億円の借金を負うことになります。
26歳のときに、借金の連帯保証人になったことが原因でした。
借金返済のために杉田かおるさんは、
どんな仕事でも受けようとしました。
死体役もやりましたし、
ハローワークがつくる失業手当の解説ビデオにも出ました。
とインタビューやトーク番組で振り返っています。
借金は父に関係してた?
1億円の借金は父に関係してた?
杉田かおるさんが26歳のときに連帯保証人になったのは、
父親の不動産の借金でした。
詳細は明らかにしていませんが、
1億円は杉田かおるさんが完済しています。
のちのち、
「長くかかったけど、いい勉強になりました」と思えるになったそうです。
両親の離婚は6歳のとき
杉田かおるさんが6歳のときに、杉田かおるさんの両親は離婚しています。
子役デビュー直前ですね。
それからは、母と妹の3人暮らし。
母子家庭でした。
父親は養育費を入れてくれない人だったそうです。
母は体が弱くて働けないこともあって、
杉田かおるさんは子役の仕事で3人の暮らしを支えることになります。
天才子役と呼ばれたころの杉田かおるさん
東大大学院のゼミに通うことで「自信」と「転換」
杉田かおるさんは、
友人のつてで東大大学院の環境学のゼミに参加させてもらったそうです。
このときの経験が人生を変えることになります。
週に1回のペースで半年間通い、
杉田かおるさんはゼミの最後にテーマの本を与えられて45分間の発表もしました。
役者の仕事で、
本の書き手が言いたいことを分析するのはずっとやってきたことでした。
発表では、ドラマを演じるつもりで臨んだそうです。
その結果、
杉田かおるさんは「プレゼンテーション能力がある」と評価されます。
トークすることにしっかりと自信がついて、
杉田かおるさんは役者という仕事を違う形で生かせることに気づいたそうですよ。
自伝の出版でバラエティー番組に呼ばれる
その後、
杉田かおるさんは自伝「すれっからし」を34歳のころに出版。
これが大きな「きっかけ」になって、
バラエティー番組に呼ばれるようになるのです。
東大大学院の環境学のゼミで自信がついたトークは、
思わぬとろこで生かされるようになってゆくのでした。
バラエティー番組の出演が増えたころについて、
それまでは決められた台本をどうやって演じるかを大事にしてきましたけど、
出版した本を通じて本音みたいなものを語りたいと思うようになっていた。
とこのように杉田かおるさんは自己分析しています。
杉田かおるの現在は農業生活してる?
杉田かおるさんは農業生活をしています。
すっかり農業にはまった杉田かおるさんは、
バラエティー番組の出演も「農業生活」について聞かれる企画が続きました。
書籍やYouTubeチャンネルでオーガニックをアピールしたり、
2016年「日本の農業と食シンポジウム」で講演したりするほど、
近年の杉田かおるさんは農業愛にあふれています。
杉田かおるの農業生活 きっかけは?
杉田かおるさんは40歳になるまでは野菜が嫌いで、
「野菜は虫が食べるものだ」と思っていたほどだったそうです。
そんな杉田かおるさんは、
健康診断の数値を見て一念発起します。
野菜を食べるように生活を変えたら、
野菜が好きになってしまうくらいになり、
それが農業にはまる「きっかけ」となったようです。
杉田かおるさんは、
農地を借りて自然農法で野菜を育てたり、
ベランダで米を育てたりすることからスタートしたそうですよ。
杉田かおるの農業生活 心境の変化
『梅沢富美男のズバッと聞きます!』出演で
2019年6月に、
杉田かおるさんは『梅沢富美男のズバッと聞きます!』に出演。
次のようなトークをしていました。
「来年で芸歴50年なんですけど、(芸能の)仕事をしてきたら、普通の生活が新鮮でしょうがない」
「土に触れて、忘れてきた時間を取り戻し『人間になりたい』みたいな心境の変化があった」
こちらは、杉田かおるさんの書籍です。
がん急逝の「自然農の師」の言葉
杉田かおるさんが「人生の師(自然農の師)」と慕っていた松尾靖子さん、
2012年5月に乳がんによって57歳の若さで亡くなりました。
松尾靖子さんは、
自ら経営する「松尾ほのぼの農園」の一部を「学びの場」として開放していました。
自然農を学びたい人たちに、
自身の経験や知恵などを伝えていた人です。
福岡県で暮らしているころに杉田かおるさんは、
無農薬農業ができないかを模索している中で松尾靖子さんと出会います。
その当時の印象について、
靖子さんの農園で答えを見つけたという杉田かおるさんは次のような言葉に残しました。
「偶然にも1か所、空きが出て。畑を借り、靖子さんや仲間のみなさんから、たくさんのことを学ばせてもらいました。」
「靖子さんからは『テレビに出ている杉田さんは輝いていない。ここにいるときは、すごく楽しそうで生き生きとしているのに』って言われたこともありました」
そして、杉田かおるさんが大事にしている松尾靖子さんの言葉は次の通りです。
「自然には無駄なものなんてひとつもない。
人間だって、自然の中で生かされている命のひとつ。
それぞれの人に必ず役目がある。
その役目をしっかりと果たしていれば、心配しなくても、おのずから”生かされる”ようになっている」
杉田かおるの農業生活 芸能生活と母の介護と
- 2011年の東日本大震災後、
杉田かおるさんは生活の拠点を一時的に福岡に移していました。
- 2011年8月、
武雄市市政アドバイザー(食育アドバイザー)に就任しています。
- 2013年12月再婚後は、女優業・タレント業をセーブ。
療養中の実母と夫と3人で神奈川に住み、
畑で農作物を育てえう生活を送る。
- 2018年1月6日、杉田かおるさんが介護していた母親が他界。
- 2020年は、
テレビ朝日「木曜ドラマ」『七人の秘書』に出演。
まとめ
一般の人なら「生い立ち」という年齢のころから、
杉田かおるさんの芸能生活は波乱万丈でした。
しかし要所要所で出会いに恵まれて、
現在はステキな人生を送っていらっしゃいます。