女優でもあり、演出家、脚本家、劇作家でもある根本宗子さん。
多才な根本宗子さんの学歴が気になりますね
今は多方面で活躍されていますが、実は学生時代は車椅子生活をしていたそうです。
では、根本宗子さんの中学校・高校・大学などの学歴、学生時代のエピソードを調査します。
目次
根本宗子の学生時代は車椅子生活?
根本宗子さんは幼少期からモーグルを始め、選手を目指していました。
フリースタイル スキー競技の一種目。こぶ状の隆起が続く斜面でジャンプやスピードを競う。
不慮の事故で負傷し、外傷性大腿骨頭壊死症を患い、寛骨臼回転骨切り術を行なったそうです。
したがって、中学高校時代の6年間を車椅子で過ごしていました。
では、事故はいつ起きたのでしょうか?
事故はいつ起きた?
根本宗子さんは、
中学1年生のときに学校の競技会のリレーで右大腿骨を複雑骨折。
バトンを受け取る時に人とぶつかり、転んだときの打ち所が悪く、股関節を骨折したそうです。
手術は、骨折箇所をボルトで止めるというもの。
リハビリをすることによって、
車椅子から松葉杖に、松葉杖が1本になり、
ボルトを抜く手術をして完治というところまで回復します。
順調に回復していると思った矢先、
「外傷性大腿骨骨頭壊死症」を患ったことを発覚。
<根本宗子さんの大腿骨骨頭壊死症について>
骨折したときに血管も切れてしまっていたことにより、
骨の一部分に血が行かなくなってしまい、骨が壊死。
根本宗子の「外傷性大腿骨頭壊死症」は完治?
担当医師のアドバイスにより、
セカンドオピニオンを求めて、
根本宗子さんの母親とともに日本中の股関節で有名な医師の話を聞いいたそうです。
最終的に2種類の方法が候補として残り、
どちらかを選ぶことになります。
根本宗子さんは幼少期からモーグルをやっていて、
選手を目指していたほどということもあって、
2種類の手術については、
- 「(再び)スキーができるかもしれないけどリスクを伴う手術」
- 「歩ける可能性がより高い手術」
と語っていました。
選んだのは、
最初の担当医師が推奨した方法、
「歩ける可能性がより高い手術」の「寛骨臼回転骨切り術」とのことです。
悪くなっている部分には一切触れず、負荷をかける場所を変えようとする手術だそうです。
残り1%の決断には、
「故・十八代目中村勘三郎さん」も後押ししてくれたというエピソードもあります。
この病気は完治しない病気だそうです。
壊死した骨が蘇る事はまずないので、一生付き合っていかないといけないとのこと。
手術を振り返るインタビューでは、
演劇をやり続けながら、
これからも「私にとって生きやすい方」の道を切り拓き続けていきたいです。
と根本宗子さんは言葉を残していました。
根本宗子の学歴(大学・高校・中学校)は?
根本宗子さんの大学に進学しておらず、
高校卒業後は「ENBUゼミナール」に入学しています。
「ENBUゼミナール」は演出家や俳優、監督などを養成する専門学校です。
根本宗子さんはかなりの演劇マニアで、
この学校の講師である赤堀雅秋さんの大ファンだということもあって、進学したそうです。
高校、中学校、小学校は東洋英和女学院に通っていました。
東洋英和女学院にも大学があるので、大学に進学していたら東洋英和女学院かもしれませんね。
大学~小学校までの偏差値をそれぞれ以下にまとめました。
- 東洋英和女学院大学:40~45
- 東洋英和女学院高等部:62
- 東洋英和女学院中等部:62
- 東洋英和女学院小学部:62
東洋英和女学院は港区六本木に所在している私立学校です。
1884年に開校したキリスト教プロテスタント系のお嬢様学校です。
根本宗子の学生時代のエピソード
高校時代は演劇マニア
根本宗子さんはかなりの演劇マニアだったそうです。
高校1年生~高校2年生で年間100本もの演劇を鑑賞したのだとか。
さらに、高校3年生は120本もの演劇を鑑賞。
主に、三谷幸喜監督が演出していた作品を観ていたそうです。
中学校時代、同級生の陰口がつらかった
根本宗子さんは中学校時代と高校時代の6年間、車椅子生活をしていました。
最初は同級生も心配していましたが、
あとに「心配してほしいから車椅子に乗っている」と一部の人に陰口を言われたそうです。
事故の原因は同級生とリレーでぶつかったことによるので、
その同級生の友人からあまりよく思われなかったのかもしれませんね。
小学校時代はモーグル選手を目指していた
根本宗子さんは幼少期からモーグルを習い始め、
当時はオリンピック選手の里谷多英さんに憧れていたそうです。
しかし、中学時代の不慮の事故によって、モーグル選手の夢がとじされました。
まとめ
根本宗子さんはつらい車椅子生活を乗り越えて、ここまで来れました。
これからのさらなる活躍を期待しています。