超ポジティブサッカー解説の松木安太郎さん。
今回の話題は、松木安太郎さんの家族。
このページでは、
「松木安太郎は娘が3人!」「嫁は過去にカフェを経営?」
「両親はどんな人?」などについてお伝えします。
どうぞ、ご覧ください。
目次
【顔画像】松木安太郎は息子がおらず娘が3人!
松木安太郎は息子がおらず娘が3人!
ネット上の見出しで、
「松木安太郎は息子がおらず娘が3人!」となるのは、
2つのポイントを整理する必要があります。
「松木安太郎は息子がおらず」は、
「貴大将 柊斗(本名:松木柊斗)」という力士がいるからです。
松木安太郎さんと松木柊斗さんは親子ではなく、
いとこの息子という関係になります。
娘が3人いるという話は、
住友不動産販売の「インタビュー私のいえ∼すまいの履歴書∼」の記事で語っていました。
松木安太郎さんには孫もいて、
3世代で同じ家に暮しているそうです。
こちらの記事では、
- 3人の娘たち、そして孫も我が家で暮らしています。
- 生活スタイルはバラバラ。
- 女性が多い家ですから、私は少々肩身が狭いですが。
などの様子を松木安太郎さんは語っています。
松木安太郎の娘【顔画像】
カフェを経営している娘
3人のうちの1人は、
千葉県市川市南八幡の駅前ビルでカフェを経営していることがわかりました。
気象予報士をしている「末広響子」さんのブログ記事の「市川食遊記」で、
松木安太郎さんの娘として名前と顔も明かされています。
娘さんの名前は、松木由貴さん。
雰囲気的に、末っ子ぽいですね。
お店の名前は、Cafe&Bar YY(カフェアンドバーワイワイ)です。
メニューには、
サッカーにちなんで「YYプレート11(イレブン)」というのがあります。
過去の画像には2人の娘?
ネット上によく出てくる「松木安太郎の娘【顔画像】」は、
こちらです。
結婚して子供を産んだ方の娘は?
松木安太郎さんの娘で、
結婚して子供を産んだ娘は誰なのかは不明。
孫はハーフという噂もありますが、
松木安太郎さんの娘は外国の人と結婚したなどの話は出てきません。
松木安太郎の嫁は過去にカフェを経営?顔画像は?
松木安太郎の嫁は過去にカフェを経営?
「松木安太郎の嫁は過去にカフェを経営?」については、
はっきりと名前も出ているような確定できる情報は見つかりません。
リサーチしてみた印象では、
『NAVERまとめ」が運営されていたころに、
松木安太郎の嫁は千葉県市川市で『ハッカカフェ』を経営している。
と記事にされていたようです。
お店の情報から、
千葉県市川市の『ハッカカフェ』を探してみたところ、
「閉店」になっていることはわかりました。
口コミサイトの『食べログ』では、
次のように表示されています。
口コミ欄のコメントを確認していくと、
『松木安太郎の奥さんが本八幡にカフェを開いたと聞いてきて、』
という文言がありました。
こちらです。
サッカー解説の松木さんの奥様がやられているカフェがあるとの事で、
日本代表戦の観戦などに使えるのかなぁと、下見がてら行ってきました。https://tabelog.com/ 引用
『HAKKA CAFE』の外観は、こんな感じ。
店内の様子は、アメリカンカフェふう?
『HAKKA CAFE』で出していたメニューには、
レッドアイやモヒート、生ハムのシーザーなどもあったようです。
松木安太郎の嫁の顔画像は?
「松木安太郎の嫁の顔画像」として探すと、
名前が出ている情報は見つかりません。
出てくる画像には、次のようなものがあります。
おそらく、
こちらは浅野拓磨選手の自宅(実家)を訪問したときの画像だと思われます。
深夜放送のテレビ朝日系『TOKYO応援宣言』の紹介記事に、
次のような見出しで登場していました。
一方、画像は粗いですが、
松木安太郎さんが写っている画像に、
『HAKKA CAFE』内ではないか?というものがあります。
(撮影で使った別の店?)
これがあるならと思い、
『HAKKA CAFE』のほうから、
「松木安太郎の嫁の顔画像」を探してみました。
「株式会社emeth」のYouTubeチャンネルで見ることができる『千葉スタイル』に、
『市川 本八幡 ハッカカフェ』を宣伝する画像を発見。
名乗っている場面はありませんが、
左側の女性が「松木安太郎さんの奥さん」ではないかと思います。
動画は、こちら。
松木安太郎の両親はどんな人?
松木安太郎の父親は特攻隊員
実家は1869年創業の超老舗の鰻屋さんということで、
松木安太郎さんの父親も後継ぎの一人なのだろうと思っていました。
しかし調べてみると、
「松木安太郎さんの父は特攻隊員だった」ことに驚かされました。
松木安太郎さんの父親は昭和2年生まれで、
特攻隊員として戦地に向かう直前で終戦を迎えたという経験のある人だというのです。
次のようなインタビュー記事があります。
こちらの記事によると、
「父は建築業などを手掛ける事業家」(戦後)だったそうです。
小学3年から始めたサッカーには、
試合の日になると、
よく見に来てくれてた父親だったと松木安太郎さんは語っています。
戦争で青春を奪われた経験があることで、
「(父親は)私を自由にさせてくれたようです」とも、
松木安太郎さん振り返っていました。
父親は53歳で他界。
40代後半には肝臓や腎臓に病を患っていたそうです。
看病を受ける父親は、
20歳そこそこの松木安太郎さんに、
「わが子のオムツを替える前に父親のを替えさせて、ごめんな」
と言葉を残しています。
松木安太郎さんは、
「こたえた(強く響いた)」と語っていました。
鰻屋は母親の実家!
Googleで検索すると、
「松木志げ」と名前が出てきます。
松木安太郎さんの母親です。
「東京すくすく | 子育て世代がつながる ― 東京新聞」の記事、
「特攻隊員だった父が教えてくれた…」には、
母親のことも少しだけ書いてありました。
子どもの頃から千葉県市川市で暮らし、両親は共働きでした。父は建築業などを手掛ける事業家。母は東京・日本橋にある実家のうなぎ料理店で働いていて、2人とも帰りが遅いことがよくありました。私が小学3年からサッカーを始めて、夢中で打ち込んだのは、寂しさを紛らわせるためでもあったと思います。
引用元:https://sukusuku.tokyo-np.co.jp/kazokunokoto/46957/
実家の鰻屋を手伝っていたのは、
母親のほうだったようですね。
こちらの「住友不動産販売のインタビュー私のいえ∼すまいの履歴書∼」の記事にも、
松木安太郎さんの母親の話は出てきます。
私の母の実家は日本橋小伝馬町で明治時代から続く鰻屋を営んでいて、
私もそこで生まれました。
子供時代の暮らしについては、
以下のようなエピソードが紹介されていました。
- 3歳くらいまでは店の奥にある一部屋で両親と暮らしていた。
- 祖父が千葉県・市川市に家を買った。
- 昼間は小伝馬町の家(鰻屋)に行き、鰻屋で働いていた母といっしょに市川市の家に帰っていた。
まとめ
家族のことをテレビで語ることはないですが、
インタビュー記事からは、
松木安太郎さんは家庭を大事にしている印象が伝わってきました。