バルセロナオリンピック金メダリストで柔道家の古賀稔彦(こが としひこ)さん。
53歳の若さで癌が原因で死去されました。
今回は古賀稔彦さんの家族について調査していきます。
では、『古賀稔彦さんの両親の顔画像』『母親と父親とのエピソード』
『生い立ち』をご覧ください。
目次
【古賀稔彦の家族】母親と父親の顔画像
古賀稔彦さんは兄の影響で、小学1年生のころから柔道を習い始めました。
今の古賀稔彦さんといえば、「伝説の柔道家」というイメージがありますが、
実は幼少期は病弱だったそうです。
最初は体を鍛えるために柔道を始めたそうですが、
いつの間にか本気で「強くなりたい」と思うようになり、
その後、数々の大会で優秀な成績を残しています。
そんな古賀稔彦さんを立派に育て上げた両親が気になりますよね。
父親と母親の顔画像はこちら。
古賀稔彦さんの父親の名前は、「古賀稔朗(こが としろう)」さん。
母親の名前は、「古賀愛子(こが あいこ)」さん。
父親は56歳の若さで悪性リンパ腫という病気にかかり、亡くなっています。
母親は2021年現在、79歳になります。
現在の母親の顔画像はこちら。
古賀稔彦さんは癌との闘病生活の中で53歳という若さで亡くなりました。
自身の母親にも病気のこと言わなかったそうです。
それはきっと、
父親も56歳の若さで悪性リンパ腫で亡くなられているので、
母親を心配させたくなかったのでしょう。
【古賀稔彦の家族】母親と父親とのエピソード
エピソード(1) 母の手料理
柔道のきついトレーニングから支えてくれたのは、母親の手料理だそうです。
古賀稔彦さんは中学生になってからは、
東京にある講道学舎の寮で暮らすようになりました。
すると、それまでの母親の手料理のありがたみを感じたそうです。
実家では、食卓には豆腐のほかに魚・ご飯・みそ汁は必ず並んでいたそうです。
また、春になればつくしを取って食べることもあり、
季節によってはセリも口にしたという。
食材にもこだわっていたそうで、
豆腐は手造りの豆腐を売っている工場から買っていたそうです。
エピソード(2) アトランタオリンピック銀メダル
古賀稔彦さんは1992年のバルセロナオリンピックで金メダルを獲得しています。
当時はひざの重症を患いながらの優勝だったので、かなり話題になりました。
痛み止めの注射を2度打ち、テープをふだんの3倍も巻いていたが、
一般の人なら1カ月は動けない重傷だったそうです。
金メダルを取ったあと、ひざの治療に2年間もかかったそうです。
2年間も練習できないことは、スポーツ選手にとってかなり痛いことですよね。
まわりからも「金メダルのまま引退する方がいいのでは?」という声があったそうです。
母親に「引退」のことを相談したら、
「今まで応援させてもらって楽しかったよ。ありがとう」
と言われたそうです。
しかし、
その言葉を聞いた古賀稔彦さんは、
「母に感謝されるほどの努力を本当に自分はしてきたか?」
と自分で疑問に思ったあそうです。
すると、もう1度努力するという決心ができ、
その結果、1995年のアトランタオリンピックでは銀メダルを獲得しました。
エピソード(3) サラリーマンの父、柔道の練習に献身的
古賀稔彦さんの両親は、
古賀稔彦さんと兄の柔道のために非常に協力的だったそうです。
中学までの毎朝、6時に起きて、
古賀稔彦さんと兄と父親の3人で近所の神社に行って、
150段の階段を毎日5~7往復走っていたそうです。
普通の人なら、会社に行く前にそんなに運動したらヘトヘトになりますよね。
毎朝子供たちの練習に付き合ってくれる父親は素敵ですね!
また、学校から帰って練習に行く前は母親が軽食を準備してくれるそうです。
父親も練習に遅れないように仕事をきちんと練習時間に間に合うように終わらせて、
柔道場まで送ってくれたそうです。
さらに、試合のある日は、父親は必ず仕事の用事を入れないそうです。
まさに家族みんなで柔道に励んでいたのですね。
エピソード(4) 父親は練習のご褒美をくれる
父親は、古賀稔彦さんと兄がしっかり稽古を頑張れば、
ご褒美にアイスを買ってくれるそうです。
「帰る途中、たばこ屋さんがあったんですね。そこにアイスクリームも置いてあったのですが、ピュッと停まるんですね。で、『アイスクリーム買ってこい』って(言ってお小遣いをくれた)。そのときには親父としても、納得のいく練習を僕らがやったという……まぁ、ご褒美なんですね。でも、そうじゃないときには……」
スクスクのっぽくん 引用
「しっかりと練習をすればご褒美をあげる。」
それは父親の教育方針の一端でした。
また、父親は1度も古賀稔彦さんと兄に柔道の練習を強制させたことはなかったようです。
それでも、古賀稔彦さんたちが練習を頑張っていたのは、
きっと「頑張ればご褒美がある」という父親の思惑にハマったのでしょう。
古賀稔彦の生い立ち
幼少期は病弱
古賀稔彦さんは幼少期、気管支喘息を患っていたそうです。
柔道を始めたのは小学1年生のときですが、
それまでは、
いつも寝てたり、咳き込んだり、病院に行ったり、病弱で軟弱な子供だったそうです。
強くなりたい一心で講道学舎に
最初は体を強く、健康的にするために柔道を始めたのですが、
徐々に「とにかく強くなりたい」「負けたくない」という気持ちが大きくなったそうです。
すると、小学校を卒業して、東京(講道学舎)に入塾。
東京都世田谷区にあった柔道の私塾。
1975年2月3日、 ダイニッカ株式会社代表取締役社長 横地治男により創立され、
ダイニッカ株式会社メセナ活動として運営された。
2015年3月閉塾。
『柔道チャンネル』のインタビューでは、当時の過酷な生活について語りました。
兄貴と同じ部屋だった僕のお小遣いは、全部兄貴が持っていくんですね。なので1年間はお金がまったくありませんでした。当時、中1と中3でしたから、兄貴に何かを言える関係じゃないんですよ。ムチャクチャ怖かったですから。
洗濯も兄貴の分も合わせて1日3回やっていました。干して畳んで。掃除も全部僕。布団も全部そうでした。
柔道チャンネル 引用
どうやら、兄弟でも上下関係はしっかりあったようです。
柔道家としての主な戦績
1986年
- 全日本選抜柔道体重別選手権大会 71kg級 2位
1987年
- 全日本選抜柔道体重別選手権大会 71kg級 優勝
- 世界柔道選手権大会(ドイツ:エッセン) 71kg級 3位
1988年
- 講道館杯全日本柔道体重別選手権大会 71kg級 優勝
- 全日本選抜柔道体重別選手権大会 71kg級 優勝
1989年
- 世界柔道選手権大会(ユーゴスラビア:ベオグラード) 71kg級 優勝
- 全日本選抜柔道体重別選手権大会 71kg級 優勝
1990年
- 全日本柔道選手権大会 2位
- 全日本選抜柔道体重別選手権大会 71kg級 優勝
1991年
- 世界柔道選手権大会(スペイン:バルセロナ) 71kg級 優勝
- 全日本選抜柔道体重別選手権大会 71kg級 優勝
1992年
- 全日本選抜柔道体重別選手権大会 71kg級 優勝
- 講道館杯全日本柔道体重別選手権大会 71kg級 優勝
- バルセロナ柔道競技(五輪) 71kg級 優勝
1995年
- 世界柔道選手権大会(日本:千葉) 78kg級 優勝
- 全日本選抜柔道体重別選手権大会 78kg級 優勝
1996年
- アトランタ柔道競技(五輪) 78kg級 2位
- 全日本選抜柔道体重別選手権大会 78kg級 3位
まとめ
古賀稔彦さんの家族(母親と父親)を調査しました。
両親とも子供たちの柔道の練習に協力的だったのですね。