赤井英和さんは、
「浪速のロッキー」と呼ばれた元プロボクサー。
俳優デビューは、
1988年の映画『またまたあぶない刑事』です。
今回の話題は、赤井英和さんの若い頃。
このページでは、
「赤井英和の若い頃はイケメン」
「若い頃は元ヤンだった?」
「赤井英和の若い頃の伝説」などについてお伝えします。
どうぞ、ご覧ください。
赤井英和の若い頃はイケメン!【画像】
若い頃のイケメン画像
赤井英和さんの若い頃は、
特に俳優デビューした当時はイケメンでした。
ここでは、
選りすぐった画像を見ていただきます。
相楽晴子との共演シーン
赤井英和さん初主演映画「どついたるねん」で、
相楽晴子さんと共演しています。
そのツーショットは、こちら。
いい雰囲気を出していますよね。
ボクサーの顔のシーンでは、
次のようにキリッとした感じでした。
1992年のニット姿
こちらは、
日本ヴォーグ社(手芸・ハンドメイドコンテンツ企業)の本の表紙です。
出版されたのは、
映画やドラマの出演が増えて人気者になったころの1992年8月。
高校時代のアルバム画像とワル顔の画像
浪速高等学校時代の画像では、
2通りの赤井英和さんの表情が見つかりました。
かなり、
印象に差がありますね。
赤井英和のプロフィールと経歴
プロフィール
- 名前:赤井 英和(あかい ひでかず)
- 生年月日:1959年8月17日(2022年-11月現在)
- 出身地:大阪府大阪市西成区
- 学歴:大阪市立今宮中学校⇒私立浪速高等学校⇒近畿大学商学部
- 現在の所属事務所:プランニングメイ
学生アマチュアボクサー時代
浪速高等学校のボクシング部時代の3年生のシーズンで赤井英和さんは、
ライトウェルター級でインターハイ、
アジアジュニアアマチュアボクシング選手権で優勝しています。
近畿大学に進学すると、
東京オリンピック(1964)日本代表浜田吉治郎さんから指導。
赤井英和さんは、
1980年モスクワオリンピック出場をめざします。
プロボクサーデビューへの経緯
1980年モスクワオリンピック日本代表には、
赤井英和さんは補欠にとどまる結果になりました。
さらに、
東西冷戦の影響で日本はモスクワオリンピックをボイコット(出場辞退)。
それを機に、学生プロボクサーに転向。
1980年9月に、
赤井英和さんは愛寿ボクシングジムに入門します。
(1982年2月の画像)
俳優デビュー
近畿大学のボクシング部コーチなど後継者育成を貢献している頃、
1988年公開映画『またまたあぶない刑事』に俳優デビュー。
1989年公開映画『どついたるねん』の自伝的作品では、
赤井英和さん本人が主演となりました。
赤井英和の若い頃は元ヤンだった?
「本当です」と認めた話
赤井英和さんの学歴を見ると、
「大阪市立今宮中学校⇒私立浪速高等学校⇒近畿大学商学部」となっているので、
「どこらへんがヤンキーやねん」と言ってみたくなります。
過去を振り返るインタビュー記事を探していると、
「はい、本当です…(苦笑)」と赤井英和さんが答えている話がありました。
それは、こちらです。
取材側(女性セブン)は、
通学電車の座席でふんぞり返るヤンキーを見かけると、
「風紀が乱れとるなぁ」と足を蹴って回ったという…
この噂が本当かどうかを確認。
赤井英和さんは、
次のように説明しています。
うちの学校の沿線には荒っぽい学校が多くて、
ヤンキーがいっぱいおりましてね。
そこで電車の中や駅でしかけると、
“赤井がまたやりおった”“○○駅でどつきあいしとった”と、
バーッと話が広まるんですよ。
名前を売るために電車を利用したというのが真相ですわ。
当時のヤンキーって、
こういう感じだったのでしょうね。
見た目の話
見た目の話は、
当時の髪形はアイパーかパンチ。
り込みを入れて、中ランにボンタンというハードなスタイルだった。
と取材側(女性セブン)の文章で説明。
赤井英和さん本人の言葉は、
ひげも一生懸命伸ばして、
お母ちゃんの眉墨で描き足したりして
“よっしゃ、これでまた大人になったな”と悦に入ってましたわ。
となっています。
画像を探してみると、
こちらの赤井英和さんが出てきました。
ヤンキーとしての立ち位置は?
赤井英和さんは、ヒーロー的存在だったそうです。
クラスメートが「天王寺のターミナルで○○高のやつらにやられた」と駆け込んでくれば、
「よっしゃ行ったる」と出向く仲間意識。
かつあげの現場に遭遇すれば、
「何しよんねん!」とワルを殴り倒すという赤井英和さんのヤンキーとしての立ち位置。
赤井英和さんは、
次のようにも振り返っています。
おれらは世直し軍団や!と言うとったけど、
やる方もやられる方もみんな知ったような顔で、
よう考えたら友達同士でじゃれあってただけだったかもしれませんね。
でも、“ま、そういう(世直し)ことにしとこうぜ”って。
ヤンキー卒業は高校2年生
高校2年生になると、
赤井英和さんはヤンキーを卒業します。
それは、
ボクシングの国体で有名選手に勝って、
雑誌に“無名の赤井が勝つ”という2、3行の記事を読んだことがきっかけ。
赤井英和さんは、
翌日にはスポーツ刈りにして、
朝4時にトレーニングをして学校に行って、放課後はジム通い。
本腰を入れてボクシングに取り組みました。
と打ち明けています。
赤井英和の若い頃の伝説5選
いろいろある赤井英和さんの若い頃ですが、
その伝説の話から5選をお届けします。
伝説(1)亀田三兄弟の父親の亀田史郎の兄をボコボコ?
ボクシングの亀田三兄弟の父親と言えば、
亀田史郎さんです。
その亀田史郎さんも三兄弟。
子供のころの話。
史郎さんの兄(当時中学生)が『高校に入ったら赤井英和をボコる』と、
言いまわっていたそうです
噂を聞いて知った、高校生だった赤井英和さんは先に、
史郎さんの兄が通う中学へ乗り込み。
結果、
ボコボコにしてしまったそうです。
「史郎くんは、まだ小学生だった」と赤井英和さん。
伝説(2)12連続KO勝ち
赤井英和さんのボクサーとしての伝説では、
デビューから12連続KO勝ちの日本記録(当時)の樹立が有名です。
ドキュメンタリー映画『AKAI』でも、
その姿は見ることができます。
こちらは、
公開されている3分35秒の動画です。
伝説(3)脳みそを手で触る?
赤井英和さんの驚きの話と言えば、
「脳みそを手で触る」というエピソード。
テレビ出演のトークや雑誌のインタビューなどで、
赤井英和さんは何度も話しています。
こちらは、
「Number Web」での見出しです。
1985年2月5日。
7回KO負けをした赤井英和さんは試合後に意識を失います。
- 急性硬膜下血腫
- 脳挫傷
によって5時間におよぶ緊急手術。
(生存率20%と言われるほどに深刻でしたが無地生還)
意識を取り戻した直後の赤井英和さんは、
錯乱状態だったそうです。
記憶のない赤井英和さんにとっては、
1985年2月5日の試合はやっていない状態。
「練習せな」と何度も起き上がろうとするので、
ベッドに縛りつけられます。
「脳みそを手で触る?」については、
ベッドで暴れながら頭を触ったりすると、ムニュっとするわけですよ。
と赤井英和さんは当時の様子を説明
開頭手術したばかりなので、
骨をはめずに皮だけ貼ったような感じだったそうです。
それで『うえっ』と吐き気を催して、
触ったらあかんて言われてるのに繰り返して……。
ほんま、脳みそだけは触ったらあきませんよ。
と笑って振り返っています。
伝説(4)トミーズ雅にメンチ(にらみ合い)?
トミーズ雅さんのエピソードとして有名なのは、
住吉高校の受験会場でのメンチを斬り合い。
受験当日だったため、
ケンカに発展することはなかったようです。
あとになって、
トミーズ雅さんは相手が「赤井英和さん」だったことを知り、
同じ学校(住吉高校)になることを恐れたと言います。
結果的には、
赤井英和さんは住吉高校は不合格で、
トミーズ雅さんはホッとしたそうです。
(画像は、「さんまのまんま」の出演)
伝説(5)赤井英和と前田日明と岡田彰布(阪神監督)
「やりすぎ都市伝説」で語られたエピソードらしいですが、
赤井英和さんと前田日明さん(元プロレスラー)のワル(ヤンキー)をやっていたころ、
二人を合わせたら大阪が壊れるとまで言われていたという話。
ついに出会ってしまった日に、
赤井英和さんと前田日明さんの一触即発を止めたのは、
岡田彰布さん(阪神監督)だと言うのです。
ちなみに前田日明さんは、赤井英和さんより学年は1つ上。
岡田彰布さんは、赤井英和さんより2つ上になります。
岡田彰布さんは北陽高校(大阪)ですが、大学は早稲田です。
まとめ
赤井英和さんがヤンキーだったのは、高校2年生まで。
その後は、ボクサーとして真剣勝負の世界に飛び込みます。
5時間におよぶ緊急手術など、
壮絶なボクサー生活のあとはタレント、俳優として活躍している赤井英和さんです。