デヴィ夫人は、1940年(昭和15年)生まれ。
その時代は、「第二次世界大戦」の前半でした。
今回は、デヴィ夫人の若い頃の話。
このページでは、
「デヴィ夫人は貧しい家庭で育った?」「高級クラブの労働で借金返済?」
「コールガールの噂も!」などについてお伝えします。
どうぞ、ご覧ください。
目次
デヴィ夫人は貧しい家庭で育った?
「デヴィ夫人は貧しい家庭で育った?」
そのような話をネット上で見つけました。
セレブな姿しか知らなったので、
「貧しい家庭で育った」は真実なのだろうかと思い、
デヴィ夫人が語っている言葉を探してみました。
生まれたのは戦争中
デヴィ夫人は、
『 Lady. Dewi Channel 』というYouTubeチャンネルを開設しています。
その中の動画コンテンツ、
『デヴィ夫人の解体新書』で子供時代をトークしている様子を見つけました。
最初に話している子供時代では、
「私の子供のころの思い出は、空襲ですね」と、
戦争(独ソ戦争)が始まる直前に、
生まれた(1940年2月6日)ことをデヴィ夫人は打ち明けています。
避難生活は、東京から福島へ。
空襲警報のときの場面や疎開先での人間関係のむずかしさなど、
当時の感情まで思い出すようにデヴィ夫人は言葉にします。
細かい話までデヴィ夫人は語っていますので、
時代背景の重みを知りたい人は、
デヴィ夫人の『 Lady. Dewi Channel 』で、ご確認ください。
貧しい家庭で育った?
やがて、
焼け野原になった東京に戻ります。
貧しい家庭については、
ネット上の情報(一般的に広がっている話)では、
大工を営む貧しい家庭に生まれたは多額の借金を抱えており…
とデヴィ夫人の幼少期について書かれている文章をよく見かけます。
デヴィ夫人が語っている「父親の仕事が大工である」ことについては、
『東京の空襲を逃れるために福島に疎開するとき、
大工の棟梁(とうりょう)だった父親だけが東京に残った』
とインタビュー記事(Wendy-Net)にありました。
こちらです。
「多額の借金を抱えており…」の部分について、
デヴィ夫人が語っている言葉は、
2021年11月11日放送の「ラジオマガジン・登龍門」のトークの中にあります。
それは、
就職か進学を決めなければいけない中学生の頃。
障子を挟んで聞き耳を立てて、
クラスの女子生徒のお母さんの会話を聞いたそうです。
初めて知った事実は、
母が私の学費を払えなくて、
クラスの女子生徒のお母さんからお金を借りていた。
借金が返せなくて催促されていました。
というもの。
それで当時のデヴィ夫人は、
「定時制の学校へ通いながら昼間は生命保険会社で働く」という道を選んだそうです。
デヴィ夫人は高級クラブ「コパカバーナ」で借金返済?
「コパカバーナ」で働いた話(ネット上の一般的な情報)
デヴィ夫人の若い頃、
高級クラブ「コパカバーナ」でホステスとして働き始めたのは、
- 「家計を支えるために通っていた定時制高校を中退」
- 「弟を大学に行かせるため」
と伝わっていることが多いです。
また、
当時のスカルノ大統領との出会いは、
「コパカバーナ」に来ていた貿易会社のメンバーによるものだった。
というエピソードもネット上の一般的な情報として広まっています。
結果的に借金返済となったのでしょうけど、
借金返済のために「コパカバーナ」で働いたというよりは、
もっと大きな志(こころざし)を持っていたような印象があります。
そのあたりは、
デヴィ夫人の言葉で確認してみました。
「コパカバーナ」で働いた話(デヴィ夫人の言葉)
若い頃にデヴィ夫人が高級クラブ「コパカバーナ」で働いた話も、
2021年11月11日放送の「ラジオマガジン・登龍門」のトークに出てきます。
トークを進行するのは、
半沢龍之介さん(Click Holdings株式会社・代表取締役社⻑ )。
次のような展開があります。
若い頃のデヴィ夫人は、
「コパカバーナ」のプリンセスと呼ばれていたそうです。
今で言うと、「ナンバーワン」。
「コパカバーナ」時代であるかどうかは不明ですが、
若い頃のデヴィ夫人の画像。
「コパカバーナ」の高級さの様子
テレビ番組で使われたらしい「コパカバーナ」の画像では、
次のようなものがありました。
「ラジオマガジン・登龍門」でデヴィ夫人は、
次のように「コパカバーナ」の高級さの様子を語っています。
銀座のクラブだと、
男性がタバコを手に持つと女性がライターで火を付ける感じですけど、
そこ(「コパカバーナ」)は逆で、
女性がタバコを手に持つとお客様が火を付けてくれました。
またデヴィ夫人は、
国際的な勉強もできたことも振り返っていました。
外国人のお客様が98%で残りが日本人のお客様。
週2~3働くことで、
英語もマナーも学べるし、
国際的な方にもお会いすることができました。
デヴィ夫人にコールガールの噂も!
デヴィ夫人にコールガールの噂も!
「デヴィ夫人にコールガールの噂も!」というのは、
都市伝説みたいなネット伝説ですね。
なぜなら、
- デマが広がったのか?
- アンチのしわざなのか?
- いつから噂になったのか?
- どこで噂になったのか?
はっきりとした情報がないからです。
コールガールというのは、
デヴィ夫人に対しては侮辱(ぶじょく)した言葉になります。
英語で表現すると、
耳慣れない現代の日本人にはカッコよく聞こえますが、
コールガールは男性に体を売る職業のことです。
赤坂にあった高級クラブ「コパカバーナ」のことを知らなくて、
夜の仕事のイメージからコールガールと結び付けたくらいなら、
すぐに訂正されるはずです。
「コパカバーナ」に来客する「高級な男性の相手をしていた」という話で、
広げたようでもありません。
おそらく、
デヴィ夫人への嫌がらせでしょう。
本の表紙に使われているデヴィ夫人のビジュアルは、
妖艶な感じに見えますけどね。
スカルノ大統領との出会い!シンデレラストーリー
デヴィ夫人は、
スカルノ大統領の最初は愛人だったそうです。
やがて結婚するのですが、
インドネシアは一夫多妻制が認められているため、
デヴィ夫人は第3婦人となります。
ちなみに、
スカルノ大統領の正妻は4人です。
「東洋の真珠」と言われるようになったデヴィ夫人は、
その表現がピッタリの美貌でした。
「第二次世界大戦」中に生まれて、
恵まれない家庭の状況で育ったデヴィ夫人。
10代のころから「コパカバーナ」で働くことになるも、
スカルノ大統領に出会うことで、
人生は一変。
そのシンデレラストーリーの始まりは、
映画を見に行ったときだったそうです。
「ラジオマガジン・登龍門」では、
次のように語っていました。
まとめ
デヴィ夫人の経歴は、
バラエティ番組のイメージとかけ離れていますよね。
大統領夫人になったことも含めて、
数奇な人生を送ってきたのは間違いないです。