NHKの『ちむどんどん』や『どうする家康』などドラマや映画にひっぱりだこの大森南朋(おおもりなお)さん。
大森南朋さんの父親は、有名な俳優さんであり、舞踏家さんです。
しかし、その名前の読み方が簡単でありません。
皆さんは、すぐに読めるでしょうか。
また怖い顔をしているにも関わらず、
「孫にはメロメロで意外!」ということが話題になっています。
大森南朋さんの父親について、どうぞご覧ください。
目次
大森南朋の父親の名前の読み方は?
大森南朋の父親の名前の読み方は?
大森南朋(なお)さんの名前の読み方もなかなか慣れないのに、
大森南朋さんの父親はもっと名前が読めません。
一発で読めるかどうか?
芸名ではありますが、漢字で「麿 赤兒」と書きます。
職業は俳優であり、舞踏家(舞台芸術としてのダンスを演舞する専門家)であり、
演出家でもあります。
読み方は「まろ あかじ」です。
変わってるなぁと思って、
「麿 赤兒」の芸名の由来を調べてみたら、おもしろい話題が見つかりました!
トイレの話題になります。
本人の表現で言うと「便所」。
「寒い冬の日に便所で尻を拭いたら、切れ痔で紙が真っ赤っかだった」
その瞬間に「あかじ」と思いついたそうです。
おもしろいエピソードはまだあって、
「麿 青兒」と名乗ることもあったのだとか。
縁起が悪いことを連想させるものを避けるという日本文化があるため、
「赤兒」は「赤字(利益がマイナス)」ということで、
テレビドラマのスポンサーから敬遠されていたという逸話があります。
それで、苦肉の策として「麿 青兒」とすることもあったようです。
(ちなみに、明治時代の画家さんで「東郷 青兒(せいじ)」という人はいました)
麿 赤兒さんの本名は、「大森宏」。
1942(昭和18)年2月23日生まれ。
出生地は石川県の金沢市で、奈良県の育ちだそうです。
大森南朋さんは、次男。
長男は映画監督である大森立嗣(おおもり たつし)さんです。
「麿 青兒」さんと大森南朋さんが出演した「まほろ駅前多田便利軒」を撮っています。
奥さんは舞台で知り合った女性で、
南朋さんたちが幼いころに離婚したそうです。
【画像】大森南朋の父親は超ワイルド!!
大森南朋さんの父親「麿 赤兒(まろ あかじ)」さんは超ワイルド!!
映画『翔んで埼玉』で「白塗りの男・西園寺宗十郎」を演じたときの画像から、どうぞ。
「麿 赤兒」さんの素顔や笑顔の画像は、こんな感じです。
素でいても、「麿 赤兒(まろ あかじ)」さん)は超ワイルドですね。
大森南朋さんの父親である「麿 赤兒」さんの略歴を紹介しておきます。
麿赤兒さんは早稲田大学文学部哲学科を中退したあとに、
舞踏家である土方 巽(ひじかた たつみ)さんに教えを受けます。
左に映っているのが麿赤兒さん、中央に映っているのが土方巽さんです。
麿赤兒さんは、
1964年に「唐 十郎(から じゅうろう)」さんと劇団「状況劇場」を設立。
(唐 十郎さんは大鶴 義丹さんの父親)
さらに、
1972年には独自で舞踏集団「大駱駝艦(だいらくだかん)」を旗揚げします。
「天賦典式(てんぷてんしき)」と銘打つスケールの大きい様式で、
舞踏評論家協会賞を5度受賞するなど、国内外で高く評価されています。
大駱駝艦・天賦典式の画像はこちらになります。
かっこいいですね。
近年、麿赤兒」さんがテレビドラマ・映画からの画像も集めてみました。
オトナの土ドラ『パパがも一度恋をした』(山下タロスケ 役)
フジテレビ「ルパンの娘」(三雲巌 役)
(続編決定の発表もありましたね!)
関西テレビ・フジテレビ系「後妻業」(笹島雅樹 役)
フジテレビ「コンフィデンスマンJP「孫秀波 役」
実写映画「地獄少女」(輪入道 役)
映画「翔んで埼玉」(西園寺宗十郎 役)
麿 赤兒さん!超ワイルドですね。
大森南朋と父親の麿赤兒は似てる?
大森南朋さんと父親は似ているのでしょうか?
比較画像を見ていきましょう。
2023年7月10日に、
息子の大森南朋さんがNHKの大河ドラマ『どうする家康』に酒井忠次役で出演した時の写真と父親の写真を並べて投稿しました。
ファンからは「似てる!」、「そっくりで釘付け」、「お父さんの若い頃?」等のコメントがありました。
大森南朋の長男の大森立嗣(おおもり たつし)は、映画監督をされていますが、兄弟なので似ているのでしょうか。
どちらかと言うと、弟の方が父親寄りにも見えますが…
3人で並ぶとやはり親子、兄弟ですね。
父の姿を見て、育った息子の大森南朋も俳優の道へ進みましたが、役柄も似てるのでしょうか。
大森南朋さんの父親、麿赤兒さんは、小学生の頃に肺結核で入院した際に同室の患者から演劇の影響を受け、演劇部などに所属していました。
その後、早稲田大学を中退し、劇団「ぶどうの会」に入団しましたが、政治色が強かったため退団。
それから、日本で有名な劇作家のひとりである唐十郎に出会い「状況劇場」を開くことになります。
劇団は退団するも、数々の受賞を獲得され舞台を中心に活躍されますが、
テレビや映画にも出演されクセスゴとかインパクトのある役を熱演し、
芸名の通り怪優と言われる俳優になりました。
2003年には映画『キルビルVol.1』にも出演され、ハリウッドでも活躍されます。
次男の大森南朋さんは、テレビや映画だけでなくCM出演も多い俳優ですが、
父親のような役とは違う路線でちょっとキュートな役柄もこなし、なくてはならない存在の俳優ですね。
大森南朋の母親は小林桃枝!どんな人?
大森南朋さんの母親は、旧姓小林桃枝さんで、「風月堂の女王」と呼ばれた一般女性でした。
風月堂は、1946年〜1973年まで東京都新宿にあった喫茶店で、1杯のコーヒーで1日いることが出来て、
さらにはレコードを流してくれる喫茶店でした。
風月堂には、ビートたけしさんや芸術家の岡本太郎さん、建築家の安藤忠雄さんなど有名人がこぞって通ったお店でした。
大森南朋さんの母親の小林桃枝さんも常連客のひとりで、気前がいい女性だったそうです。
常連客の仲間からはダダイスムからとって”ダダ”という愛称で呼ばれていました。
ダダイスム(仏: Dadaïsme)は、1910年代半ばに起こった芸術思想・芸術運動のこと
引用:weblio辞書
大森南朋さんの父親の麿赤兒さんも常連客のひとりで、ふたりは風月堂で出逢い、小林桃枝さんから声をかけたそうです。
小林桃枝さんかなぜ「風月堂の女王」と呼ばれたのは、お店ではアイドル的存在だったそうです。
キレイなお姉さんの雰囲気が出てますが、通い始めたのは、なんと高校生の頃からでした。
大人びた雰囲気から、華やかな生活をされていたかと思いきや、
小林桃枝さんが5歳のときに実の母が病死され、義理の母親ができるも相性が合わずケンカの連続だったそうです。
家族との居心地が悪く高校も中退してしまい、家を出ることになり、
居場所を求めてなのかはわかりませんが、風月堂に良く行くようになったそうです。
きれいな顔立ちと周りから一目置かれるファンションスタイルで目立つ存在でした。
10代で麿赤兒と交際するようになり、24歳で授かり婚となり、長男が誕生します。
さらに2年後には、次男が生まれるも麿赤兒は舞台や舞踏家として活動家していたため、
子育ては母の小林桃枝かひとりで行っていたそうで、すれ違いの生活から離婚になってしまいました。
まだ2人の子供が小さい時に別れてしまったため、母ひとりで育てることになりましたが、
ご存じのとおり、2人とも父と同じ道に進むことになりました。
大森南朋と家族のエピソード5選!
①母親は近所付き合いがよかった
大森南朋さんの母・小林桃枝さんは、女手一つで2人の子供を育てるために新宿でバー「ダダ」を営みます。
大森南朋さんの母親は普通の物差しで物事を見ないタイプで、近所の不良の子が居てもそういう子たちとは付き合うなと言わず、家に連れてきなさいという考えの持ち主だったそうです。
②「父親はおばけです」
大森南朋さんのご両親ともに善悪などで判断しない性格があり、本人自身も影響していると答えていました。
大森南朋が小学生の頃に父親の職業の絵を描く授業があり、白塗りになった幽霊のような父親を描き、先生に聞かれて、
お父さんはお化けです。
と言ってしまい、学校に呼び出されたことがあったそうです。
③親のコネ
また、大森南朋が高校卒業後、バンドに熱中するも中途半端でフリーターをしていた時に、
父親に呼ばれて役者になるかと聞かれいいよの一言で俳優の世界に入ったそうです。
バンドじゃないんかい~と言いたいところですが、そこは親のコネですね。
麿赤兒さんは、芸能界に入った2人の子供にクスリはやるな、
女はうまいことすればなんとかなると教えたそうです。
④父親は素直な人
長男・大森立嗣さんの監督の作品に麿赤兒さんが出演したときは、
父親ずらせずに素直に監督にどうしたらいいですか?と演出のアドバイスを確認しながらおとなしくやっていたそうです。
⑤孫にメロメロ
大森南朋さんの第一子が生まれたときには、麿赤兒さんは嬉しすぎて、病院まで赤ちゃんをあやしに来るぐらい、孫にメロメロ状態だそうです。
あの顔で赤ちゃんをあやすのかと考えてもイメージがつきませんが、孫の足にチューをしたりするくらい孫をかわいがっているそうです。
大森南朋さんは、家族よりも仕事を優先してきた麿赤兒さんの事を、父親の役割りはしていなかったと思っていましたが、今ではおじいちゃんとしての幸せもできて親孝行ですね。
まとめ
大森南朋さんの父親「麿 赤兒」さんは超ワイルドなのに、
お孫さんにはメロメロでした。
元気にがんばっていらっしゃいますので、
テレビドラマでの活躍もまだまだ見られますよ。